連邦議会への進出
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「ロバート・トゥームズ」の記事における「連邦議会への進出」の解説
トゥームズは1830年に弁護士業を開業した後、1837年から1840年まで、また1841年から1843年までジョージア州下院議員を務めた。トゥームズは温厚な人柄やエンターテイナー的活動、そして若くして政界に進出した手腕が評価され、ジョージア州民の高い関心と支持を集めた。 トゥームズは人気の波に乗って連邦議会の下院の議席も勝ち取り、1844年から1853年まで4期8年、下院議員を務めた。トゥームズは近しい友人らとともにアレクサンダー・スティーヴンズを擁立、19世紀中葉のジョージア州において最も強固な政治同盟を結成した。トゥームズらはジョージア州が抱える問題を明確に示し、州の権利拡大を主張した。1850年代初頭、ホイッグ党が衰退へ向かうと、トゥームズは不本意ながら民主党に加わり、1853年から1861年まで上院議員として活動した。 1840年代から1850年代にかけて、トゥームズはジョージア州の利益と国の政策とを一致させるために多くの活動を行った。その顕著な例が1850年のジョージア政治要綱への支持表明であり、奴隷制の是非をめぐって南北で対立する合衆国の連邦制を維持するために傾倒した。トゥームズはテキサス併合、米墨戦争、ジェイムズ・ポーク大統領のオレゴン政策、そして1846年のウォーカー関税に反対し、南北の勢力の均衡を図った。また奴隷制をめぐる対立を解消するための唯一の策としてアレクサンダー・スティーヴンズやハウエル・コブらが主張した南部諸州の連邦離脱論についても反対し、ヘンリー・クレイが提案した1850年の妥協を擁護した。ただしトゥームズが連邦離脱に反対の意思を示したのは、連邦離脱そのものが間違いであると判断したわけではなく、単に連邦離脱が非合理的であると判断したためであった。そのためトゥームズはカンザス・ネブラスカ法やルコンプトン憲法(英語版)、イングリッシュ法案には賛成の意思を示した。しかしながら1850年代末になると、南北間の衝突回避が非現実的な情勢となり、トゥームズの求心力は徐々に減少していった。 1856年6月、トゥームズは連邦上院にトゥームズ法案を提出し、反奴隷制を主張する指導者たちの同意の下でカンザス州憲法制定会議を開催することを提案した。これは奴隷制を支持する上院議員にとって大きな譲歩を強いるものであったが、上院を通過した。その後、トゥームズ法案は下院で否決されたが、この動きは翌1857年のルコンプトン憲法(英語版)採択へとつながった。
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