近鉄バファローズ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:39 UTC 版)
「大阪近鉄バファローズ」の記事における「近鉄バファローズ時代」の解説
「近鉄バファローズ」という球団名は1998年まで使われたが、ここでは大阪ドーム移転前年の1996年までの事について述べ、大阪ドームに移転した1997年・1998年の両年については#大阪ドーム時代を参照。
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近鉄バファローズ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 05:37 UTC 版)
「チャーリー・マニエル」の記事における「近鉄バファローズ時代」の解説
近鉄では指名打者で起用され、1979年は開幕から打ちまくってチームの独走に貢献、48試合でホームラン24本、打率.378はいずれも日本新記録ペースだった。ところが、6月9日の対ロッテオリオンズ戦で八木沢荘六から顔面に死球を受けて顎を骨折し全治2、3か月の重傷で戦線を離脱した。マニエルの欠場期間、首位を走っていた近鉄は2度の3連敗で急下降し、9連勝の阪急ブレーブスにゲーム差なしと迫られる苦境に陥ったが、前期最終戦の6月26日の南海ホークス戦に1対1の引き分けで辛くも前期優勝を果たした。 マニエルは8月3日からベンチ入りして戦列に復帰し、4日の阪急戦にて代打で出場して適時打を打ち56日ぶりの出場を果たした。打席では顎への防禦用のフェイスマスクを付けた特殊なヘルメットをパ・リーグから許可を得た上で装着していた。11日のロッテ戦の前には、長期欠場のきっかけとなる死球を与えた八木沢の「直接会って謝罪したい」との要望で話し合いを行った。マニエルは八木沢に対しては「謝罪に来てくれたことには感謝する」としたものの、死球はロッテ側による封じ込め策であると主張した。 マニエルは死球による戦線離脱で97試合の出場に止まっものの、37本塁打で本塁打王を獲得し、近鉄のリーグ初優勝に貢献。長打率.7117は当時のパ・リーグ記録を更新し、MVPにも輝いた。 1980年は打率.325、48本塁打、129打点で本塁打・打点の2冠を獲得、チームをリーグ連覇に導いた。しかし、契約更改で複数年契約を要求したが、単年契約を呈示した球団と折り合わず、近鉄は1981年1月8日にマニエルを自由契約にした。
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