農場開設時の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/10/08 09:15 UTC 版)
「三五公司源成農場」の記事における「農場開設時の状況」の解説
領台初期における総督府の植民政策は、特別な注意を払い行われた。すなわち清国政府を刺激しないように、積極的な植民政策を実行するのでなく、裏面から懐柔的に植民政策の実現を期すこととされた。そのため当時官有未墾地の払い下げを出願する民間人が族出する機会を促えて、これを利用して内地人の移植を促進すべきとされた。官有未墾地の払下げがなされたとき、払下げの出願者は38件、その面積の合計は3万8000甲に及んだ。しかし、払下げを受けた者のうち、条件通りに移民事業を実行したものは、愛久澤を含めわずか8人に過ぎなかった。そしてこの官有未開墾地の払下げにあたっては、総督府より日本人移民を収容するようにとの厳重な要件が付されていた。そのため1909年の農場開設時における移民に対しては以下のような手厚い保護があった。 農場までの旅費の支給 家屋と敷地菜園の無料貸与 家具農具及び種子肥料の貸与 一定時間食費の貸与 上記貸与金品の回収は移住の翌年より4カ年内に年賦をもって返納させる 衛生に関しては農場付近に医療所を特設し医師を招聘し、病室を設け重患者を収容し、治療薬価の実費を徴収する 教育に関しては農場の費用を以って移民地に校舎を建設し、これを官に寄付し彰化小学校の分教場とし移民の子弟の教育をする このような保護を加え日本人移民を奨励し、移民戸数も一時的には123戸にのぼった。しかし農場自体の成績は甚だしく不良であり、開設翌年にはすでに動揺し始め、離散する移民者の数が極めて多く、遂には日本人の小作移民の収容して小作制大農場を経営しようとする試みは失敗に終わった。そのため、その後近隣の客家系台湾人を招来して小作制大農場を展開することとなった。なお、このとき整理された日本人移民のうち34戸(157人)が同じく愛久澤が開設した三五公司南隆農場に収容されることになった。
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