足助氏の支配とは? わかりやすく解説

足助氏の支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:57 UTC 版)

足助町 (豊田市)」の記事における「足助氏の支配」の解説

平安時代後期院政期には、寄進地系荘園八条院領であった高橋新庄編入され応永年間以降にその名が現れる足助庄は高橋新庄後身であるともいわれるが、史料連続性成り立たないという説もある。 平安時代末期治承年間の頃とされる)、高橋新庄荘官として赴任した尾張国山田重長が現在の近岡町山稜居城黍生(きびゅう)城を築き、ここに移り住む山田重長は賀茂六郎足助重長称し足助氏の祖となる人物である。2代目惣領足助重秀は黍生城から飯盛山城移り以降足助氏8代目惣領足助重政1343年興国4年康永2年)頃に退去するまで飯盛山城居城とする。足助七屋敷(足助七城)と呼ばれる複数城砦足助氏一族配され足助郷は約1半世紀近く足助氏の支配下に置かれたが、1333年元弘3年)には足助又三郎から吉河殿への荘官交代1337年延元2年建武4年当時荘官は源基連であったとする史料残されており、1332年元弘2年)の7代目惣領足助次郎重範死後一族次第足助郷から各地へと離散し始めることからも、この頃には足助氏の支配力に翳り見えていたと考えられる。やがて8代目惣領重政退去し飯盛山城は、そのまま廃城となった思われる。ただし、「熊野那智大社文書」により1357年正平12年)の時点足助氏足助在留していたことは間違いないとされ、飯盛山城廃城となった後も足助氏在地一定の勢力保っていた形跡はあり、足助重胤、足助淳重、奉公衆2番足助氏などの名も残っている。 ところで1331年元弘元年)、元弘の乱のあおりを受けた後醍醐天皇第3皇子平勝親王が、当時まだ13歳であった権中納言二条良基伴って京を出奔し足助の上平(かみだいら)まで流落したとされる代々尊皇の念が強い足助氏決起促すめだったとも推測され果たし翌年には7代目惣領足助重範足助衆を引き連れて上京笠置山の戦いにて奮戦するも捕らえられ倒幕与した咎で非業の最期遂げることになる。上平村逗留していた平勝親王は、夢告得て綾渡(現綾渡町)の壇独山大悲密院に参籠した後に討幕運動持続決意帰京する他方二条良基程なくして帰京した後に建武政権下で中央政治復帰することになるが、足助での短い逗留間中には、侍女として仕えていた足助重範の娘滝野との間に三吉丸という男児もうけている。この男児長じて成瀬基久を名乗り成瀬氏三河成瀬氏)の祖となる人物である。なお、平勝親王二条良基逗留した上平村は後に中之御所村改名するが、その由来として、二条良基の子成瀬基久?)が中之御所殿を称してこの地に住まったためだとか、この地にあった尹良親王御殿が中之御所称したためだとか言われている。

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