足助氏の支配
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平安時代後期の院政期には、寄進地系荘園で八条院領であった高橋新庄に編入され、応永年間以降にその名が現れる足助庄は高橋新庄の後身であるともいわれるが、史料上連続性が成り立たないという説もある。 平安時代末期(治承年間の頃とされる)、高橋新庄の荘官として赴任した尾張国の山田重長が現在の近岡町の山稜に居城黍生(きびゅう)城を築き、ここに移り住む。山田重長は賀茂六郎足助重長と称し、足助氏の祖となる人物である。2代目惣領足助重秀は黍生城から飯盛山城に移り、以降足助氏は8代目惣領足助重政が1343年(興国4年・康永2年)頃に退去するまで飯盛山城を居城とする。足助七屋敷(足助七城)と呼ばれる複数の城砦に足助氏一族が配され、足助郷は約1半世紀近く足助氏の支配下に置かれたが、1333年(元弘3年)には足助又三郎から吉河殿への荘官の交代、1337年(延元2年・建武4年)当時の荘官は源基連であったとする史料が残されており、1332年(元弘2年)の7代目惣領足助次郎重範の死後、一族が次第に足助郷から各地へと離散し始めることからも、この頃には足助氏の支配力に翳りが見えていたと考えられる。やがて8代目惣領重政が退去した飯盛山城は、そのまま廃城となったと思われる。ただし、「熊野那智大社文書」により1357年(正平12年)の時点で足助氏が足助に在留していたことは間違いないとされ、飯盛山城が廃城となった後も足助氏が在地に一定の勢力を保っていた形跡はあり、足助重胤、足助淳重、奉公衆2番衆足助氏などの名も残っている。 ところで1331年(元弘元年)、元弘の乱のあおりを受けた後醍醐天皇の第3皇子平勝親王が、当時まだ13歳であった権中納言二条良基を伴って京を出奔し、足助郷の上平(かみだいら)村まで流落したとされる。代々尊皇の念が強い足助氏の決起を促すためだったとも推測され、果たして翌年には7代目惣領足助重範が足助衆を引き連れて上京、笠置山の戦いにて奮戦するも捕らえられ、倒幕に与した咎で非業の最期を遂げることになる。上平村に逗留していた平勝親王は、夢告を得て綾渡(現綾渡町)の壇独山大悲密院に参籠した後に討幕運動の持続を決意、帰京する。他方の二条良基も程なくして帰京した後に建武政権下で中央政治に復帰することになるが、足助での短い逗留期間中には、侍女として仕えていた足助重範の娘滝野との間に三吉丸という男児をもうけている。この男児は長じて成瀬基久を名乗り、成瀬氏(三河成瀬氏)の祖となる人物である。なお、平勝親王や二条良基が逗留した上平村は後に中之御所村に改名するが、その由来として、二条良基の子(成瀬基久?)が中之御所殿を称してこの地に住まったためだとか、この地にあった尹良親王の御殿が中之御所を称したためだとか言われている。
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