起源と古代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:03 UTC 版)
古く「那津(なのつ)」「荒津(あらつ)」「灘津(なだつ)」「冷泉津」「筑紫大津」と呼ばれていた博多湾は、797年(延暦16年)の『続日本紀』において「博多大津(博多津)」と記されているのが見出される。「ハカタ」の語源は、「土地博(ひろ)く人・物産多し」という言葉から「博多」、大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」、海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」、射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」(鶴の墓は太宰府市の榎社にある)、切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」などの説がある。この当時の「博多」というのは現在の博多湾に面する一帯を指すものであった。 大宰府の外港であった博多津には万葉集にも読まれた筑紫館という日本最古の外交施設が存在した。その後、同じ場所に鴻臚館として建て直され、鴻臚館貿易が行われるとともに、遣隋使、遣唐使が経由地として訪れていた(鴻臚館は現在の福岡城内で発掘作業が行われている)。757年(天平宝字元年)に櫛田神社が創建。806年(大同元年)に唐より帰朝した空海は博多に東長寺を建立している。 藤原純友の乱に際しては、朝廷追捕使小野好古と藤原純友との争いで博多の町が焼失する。この争いの前、好古は戦勝祈願にと櫛田神社に素盞鳴大神を勧請したとされる。
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