筑紫館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 14:33 UTC 版)
磐井の乱(527年 - 528年)の後、宣化元年(536年)に那津のほとりに通称「那津官家(なのつのみやけ)」を設置し、九州支配と外交の役目を果たす。推古17年(609年)には筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)の名で『日本書紀』に登場。白村江の戦いの翌年(664年)に行政機能は内陸の大宰府(現在の太宰府市)に移転、那津のほとりには大宰府の機関のひとつとして海外交流および国防の拠点施設が残された。 この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として機能し、海外使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や都へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府の間は約16キロメートルだが、そこを最大幅10メートルの側溝を完備した直線道路が敷設されていた。ただしこの道路は8世紀内に廃道となる。持統2年(688年)には筑紫館で新羅国使全霜林を饗したと『日本書紀』に記されている。また海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられた。天平8年(736年)に新羅へ派遣される遣新羅使が筑紫館で詠んだ歌が『万葉集』に収録されている。律令制においては治部省玄蕃寮の管轄であった。筑紫館はまた外国商人らの検問・接待・交易などに用いられた。
※この「筑紫館」の解説は、「鴻臚館」の解説の一部です。
「筑紫館」を含む「鴻臚館」の記事については、「鴻臚館」の概要を参照ください。
- 筑紫館のページへのリンク