貴族学校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 01:22 UTC 版)
「ミハイル・レールモントフ」の記事における「貴族学校時代」の解説
1828年にレールモントフはモスクワ大学付属貴族学校に入学し、この頃から詩作を始めたと考えられている。 1年間個人的な指導を受けた後、1829年2月に13歳になったレールモントフは入学試験に合格し、モスクワ大学付属貴族学校の第5学年に編入する。ここでの彼の個人的なチューターは詩人のアレクセイ・メルズリャコフ、彼と並んでロシア語とラテン語を教えたジノヴィエフだった。彼らの影響の下、少年は自分の家の広大な図書室を最大限に活用して読書を始め、その中にはミハイル・ロモノーソフ、ガヴリーラ・デルジャーヴィン、イヴァン・ドミトリエフ(英語版)、ヴラディスラフ・オゼロフ(英語版)、コンスタンティン・バーチュシコフ(ロシア語版)、イヴァン・クルィロフ、イヴァン・コズロフ(英語版)、ヴァシーリー・ジュコーフスキー、アレクサンドル・プーシキンらの著作が含まれていた。間もなく彼はアマチュアの学生雑誌の編集に携わるようになった。彼の友人の一人で従姉妹でもあるエカテリーナはレールモントフを「バイロンの大量の著作と結婚した」と評し、また当時レールモントフはエカテリーナに対して恋愛感情を抱いており、1820年代後半に彼女に捧げるために"Nishchy"などのいくつかの詩を作り出した。文学の指導者たちはレールモントフを特定の作家の影響下から離そうとしたが、バイロンはレールモントフのインスピレーションの根源であり続けた。1830年に同人誌"Ateneum"で発表された "Vesna"(春)という短い詩は、非公式ながらもレールモントフにとっての出版物でのデビュー作となる。 詩的な技術に加えて、レールモントフは毒を含んだウィット、残酷で嘲笑的なユーモアの傾向を発達させていった。1828年に行われた試験ではレールモントフはジュコーフスキーの詩を朗読、バイオリンのエチュードを演奏し、最も優れた成績を勝ち取った。1830年4月に寄宿学校がギムナジウムに転換させられると、レールモントフも同級生の大部分と同じようにすぐに退学した。
※この「貴族学校時代」の解説は、「ミハイル・レールモントフ」の解説の一部です。
「貴族学校時代」を含む「ミハイル・レールモントフ」の記事については、「ミハイル・レールモントフ」の概要を参照ください。
- 貴族学校時代のページへのリンク