貴族志向と円熟
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嘉永3年(1850年)には蔵人所衆である岡田家の養嗣子となり、蔵人所衆の役に就く。同年6月3日正六位下式部大掾に任じられ、安政2年1月22日に式部少丞に転じる。為恭の作品は、こうした官職を長々と署名する事が多い。為恭は王朝文化を追慕するあまり、住居や衣服、生活様式そのものを平安風に改めて往古を偲んだという。嘉永6年(1853年)仏書にも通じていた為恭は、天台僧大行満願海が著した『勧発菩提心文』の挿絵を描いたことが切っ掛けで願海と深く交流、彼の依頼で多くの仏画を描く。安政2年(1855年)三条実万の斡旋により御所へ出仕し小御所北廂襖絵を描き現存する。翌年8月には関白・九条尚忠の直廬預となる。安政7年(1860年)には、九条尚忠の特使として金刀比羅宮に訪れ、同社に幾つも作品を残した。この頃、社会的な身分も上昇と並行して画技も成熟し、大樹寺の障壁画を始めとして多くの作品を残している。
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