貧しい村から日本一の金持ち村へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 00:14 UTC 版)
「飛島村」の記事における「貧しい村から日本一の金持ち村へ」の解説
かつては貧しい村であり、戦前から数度市町村合併の俎上に上るも、相手自治体から毎回拒否された。1944年の東南海地震でも甚大な災害を被ったものの、太平洋戦争下で軍部の命令により、燈火管制を敷いている名古屋市の工場が攻撃される事を防ぐため、飛島村の田や畑に裸電球を燈して大都市を装うことで、戦争の矢面に立つことを余儀なくされ、空襲による犠牲者も多かった。 さらに1959年9月に襲来した伊勢湾台風では高潮被害などで130名の犠牲者を出し、村長が県・国に数度対策を哀願するも、財政力の弱さから、復旧は「南海作戦」と呼ばれる海上自衛隊が着手した最後の伊勢湾台風復旧事業により被災から2ヶ月後まで水が引くことはなかった。村民の流出も相次ぎ、1960年時点では、財政力指数は0.22の貧しい自治体であった。なお、筏川の畔には「伊勢湾台風殉難之碑」が建立された。 同年、当時の愛知県知事・桑原幹根により、伊勢湾台風の直撃を受けた湾岸に臨海工業地帯の建設が計画され、飛島村では1962年から1981年にかけて伊勢湾岸の埋め立てが行われた。埋め立て中の1968年には33万平方メートルの貯木場が完成し、行政権は飛島村に属することが決まった。さらに造船鉄鋼産業地も飛島村に属し、次第に裕福な村へと変貌していった。 2017年度の歳入額は約68億5000万円で、うち固定資産税は約29億4000万円、同年度の財政力指数は日本で最高位の2.15であり、「日本一の金持ち村」として、度々マスメディアで特集を組まれ紹介されている。
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