貧のぬすみ話とは? わかりやすく解説

貧のぬすみ話(~村上素道老師)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:08 UTC 版)

柴田周吉」の記事における「貧のぬすみ話(~村上素道老師)」の解説

村上素道曹洞宗禅僧昭和17年儀山聖護寺再建)を敬愛していた柴田産經新聞紙上自身連載していた随筆や『柴田周吉自傳』で以下の談話触れている。柴田三菱化成社長時、久しぶり上京した村上素道老師家中迎えた食事済み一同コタツのまわりをとりかこんだ折、柴田次男当時高校生)が同席していたこともあり、老師の話は自然と親子の話へ移った。「わたしのうちは子供多くて暮らし大変だったときには母親盗みまでして子供食べさせたものだった。それも行きづまって、最後には、とうとう私は寺にあずけられた。ときどき里帰りすることがあると、寺に帰るとき、母親途中小店のある所まで、淋しそうに見送ってくれた...とにかく、盗みまでして育ててくれた、母の恩は忘れられない。」柴田曰く、「世の諺に”貧の盗み恋の歌”というのがあるが、社会保障のない明治初年のころは、貧困家庭は、子供育てるためには、盗みでも何でもする以外に道がなかったのであろう老師母上当時犠牲とお苦しみ察しられるが、母上盗みの話をなんらこだわりなく、とらわれるともなく話される話し振り、これは老師お人からくるものであろうここまでくると、盗みの話も一つ不純なことではなくなってしまう。」と記述している。併せて柴田幼少期曰く7、8歳頃)に過ごした起きた泥棒エピソードエピソード参照)に触れ当時農村福祉施設も何もなく、食いかねるほど貧しギリギリ状況下での出来事語り末尾に「鍛え鍛えて抜け切った人でなくてはこんな話はできるものでなく、また、聞けるものではない。」と結んでいる。(熊本に庵を結んでいた村上素道黒崎柴田-黒崎工場時代-を毎年訪ねて柴田若手達に法話聞かせていた。)

※この「貧のぬすみ話(~村上素道老師)」の解説は、「柴田周吉」の解説の一部です。
「貧のぬすみ話(~村上素道老師)」を含む「柴田周吉」の記事については、「柴田周吉」の概要を参照ください。

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