貧のぬすみ話(~村上素道老師)
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「柴田周吉」の記事における「貧のぬすみ話(~村上素道老師)」の解説
村上素道(曹洞宗の禅僧・昭和17年鳳儀山聖護寺を再建)を敬愛していた柴田は産經新聞紙上に自身が連載していた随筆や『柴田周吉自傳』で以下の談話に触れている。柴田が三菱化成社長時、久しぶりに上京した村上素道老師を家中で迎えた。食事が済み、一同コタツのまわりをとりかこんだ折、柴田の次男(当時高校生)が同席していたこともあり、老師の話は自然と親子の話へ移った。「わたしのうちは子供が多くて、暮らしは大変だった。ときには、母親が盗みまでして子供に食べさせたものだった。それも行きづまって、最後には、とうとう私は寺にあずけられた。ときどき里帰りすることがあると、寺に帰るとき、母親は途中の小店のある所まで、淋しそうに見送ってくれた...とにかく、盗みまでして育ててくれた、母の恩は忘れられない。」柴田曰く、「世の諺に”貧の盗み恋の歌”というのがあるが、社会保障のない明治の初年のころは、貧困家庭は、子供を育てるためには、盗みでも何でもする以外に道がなかったのであろう。老師の母上の当時の犠牲とお苦しみも察しられるが、母上の盗みの話をなんらこだわりなく、とらわれることもなく話される話し振り、これは老師のお人柄からくるものであろう。ここまでくると、盗みの話も一つも不純なことではなくなってしまう。」と記述している。併せて柴田が幼少期(曰く7、8歳頃)に過ごした村で起きた米泥棒のエピソード(エピソード参照)に触れ、当時の農村は福祉施設も何もなく、食いかねるほど貧しいギリギリの状況下での出来事と語り、末尾に「鍛えに鍛えて、抜け切った人でなくてはこんな話はできるものでなく、また、聞けるものではない。」と結んでいる。(熊本に庵を結んでいた村上素道は黒崎の柴田-黒崎工場時代-を毎年訪ねて、柴田と若手達に法話を聞かせていた。)
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