貧しさと闘いつつも制作に没頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 09:41 UTC 版)
「森崎伯霊」の記事における「貧しさと闘いつつも制作に没頭」の解説
結婚に伴い姫路に戻ったが、子供が生まれても絵は売れず、貧困の底を体験することとなった。父母の命のあるうちに日本美術院入選を願い活動を続けてきたが、皮肉にも1943年(昭和18年)9月、『田の草取』で最初の入選をしたのは、父を亡くした7ヶ月後であった。その後は毎年入選し、美術院院友ともなったが、翌1944年(昭和19年)に姫路公会堂で開いた初の個展もさほど注目される事もなく、苦しい生活には変わりはなかった。 しかし各地の美術展、院展にはかかさず毎年出品し、その努力もあり1965年(昭和40年)には日本美術院特待となった。院展の作品は締め切り間際でないと仕上がらないような事もあり、配送業者などでは到底間に合わないので、家族で車で前日夜に出発し、翌朝一番で東京上野の美術館に搬入するような事も何度もあったという。1974年(昭和49年)、姫路大手前通りにダイエーが出品するにあたり、30年振りの個展の話が持ち上がった。戦中であった先の個展と違い、今回は人々に心の余裕もでき、絵に関心を持つ人も多くなっていたため盛況に終わらせる事ができた。これをきっかけに、1982年(昭和57年)の兵庫県文化賞をはじめ多くの文化賞も受け、大きな展覧会も開催されるようになった。
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