象徴主義の勃興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 08:15 UTC 版)
1890年代の半ばまで、ロシア象徴主義はなお単なる理論の集合にすぎず、注目に値する実践者は見出されていなかった。アレクサンドル・ドブロリューボフは1895年に詩学論を出版しているが、その直後も詩作はうち棄てられたまま、象牙の塔から象牙の塔へと彷徨うことをよしとされていた。もう1人の有能な作家、イヴァン・コネフスコイは24歳の若さで夭折している。象徴主義が大きな運動としてロシア文壇に躍り出るには、新人ヴァレリー・ブリューソフの出番を俟つしかなかった。 ブリューソフは、象徴主義が手強い信奉者からなる運動であることを示そうとして、おびただしい数の筆名を使い分け、3巻からなる自作の詩集を『ロシアの象徴主義者たち。詞花集』と題して1894年と1895年に出版した。ブリューソフの戦略的な「煙幕」は、成功した。数人の若い詩人が、ロシア文学最新の流行として象徴主義に惹き付けられたのである。ブリューソフのほかに最も人気のある詩人といえば、最初の霊感を信じて、時折わざと詩句を改訂しなかったコンスタンティン・バリモントや、「死の吟遊詩人」を自称した悲観主義者のフョードル・ソログープがいる。 これらの作家の多くは、20世紀半ばまでに名声を失ったものの、象徴主義運動の影響はそれでもなお絶大だった。これはとりわけインノケンティー・アンネンスキーの場合に当てはまる。アンネンスキーの最後の詩集『糸杉材の箱』は1909年に死後出版された。しばしば「呪われた詩人」のロシア版として言及されるアンネンスキーは、ボードレールやヴェルレーヌの詩に不可欠の抑揚をロシア語に写し取ろうと努めたものの、繊細な音楽性や不気味な暗示、不可解な語彙、色彩や芳香のかすかな変化の魅力といったものはみなアンネンスキーならではのものである。アンネンスキーがアクメイズムの詩人たち(アンナ・アフマートヴァ、ニコライ・グミリョーフ、オシップ・マンデリシタームら)に与えた影響は計り知れない。
※この「象徴主義の勃興」の解説は、「ロシア象徴主義」の解説の一部です。
「象徴主義の勃興」を含む「ロシア象徴主義」の記事については、「ロシア象徴主義」の概要を参照ください。
- 象徴主義の勃興のページへのリンク