諸家分立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:58 UTC 版)
その後の一色氏は、満範の3人の息子の家に分かれていく。長男持範は嫡流であったが三河・伊勢へと退いた。次男義範(義貫)は惣領(丹後・若狭守護)の地位を譲り受けた。三男持信ははじめ次兄義範の代官の地位に甘んじたが、後に幕臣として子教親ともども6代将軍足利義教に重用された。 持範の子の時代に一色氏はさらに枝分かれし、一色式部少輔家と一色右馬頭家が興った。式部少輔家と右馬頭家は、かつての守護家として将軍家より時には国持並の外様衆として遇され、名字の地である三河等にも所領を許されたものの、主には将軍家の側近として京都に在住したと思われる。 関東においては、宮内一色氏の一色持家(時家)が鎌倉公方足利持氏に信任され、相模守護に任じられたことが判明している。だが、この任命は幕府の許可を取らずに鎌倉府が一方的に行った人事であり、永享の乱の一因ともなった。 義範(義貫)は、宿老の1人として幕政に参与していたが、将軍足利義教の代になると次第に義教と対立し、永享12年(1440年)、永享の乱で幕府に敗れた鎌倉公方持氏の残党(一色持家ら)を匿った罪で追討を受け、大和国信貴山で自害した。 義教の近習であった教親が家督を継ぎ丹後守護となったものの、一色氏は三河と若狭の守護職を細川持常・武田信栄に奪われ、一時勢力を縮小させた。だが、子のなかった教親の後を義貫の遺児一色義直が継ぐと、丹後及び伊勢半国の守護となり、三河渥美郡・若狭小浜も知行地として手に入れた。また御相伴衆にもなって8代将軍足利義政の信任を受けた。
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