諸地方の反乱・デカン地方における統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:02 UTC 版)
「アウラングゼーブ」の記事における「諸地方の反乱・デカン地方における統治」の解説
だが、このようにアウラングゼーブが帝国の領土を拡大しているにもかかわらず、1680年代から1690年代にかけて、北インド各地では農民やザミーンダールなど人々の反乱が相次いだ。なぜなら、かねてからの重税に加え、デカン戦争による莫大な戦費がさらなる負担として人々の肩に重くのしかかかり、その生活が困窮したからであった。 すでに、1680年代にはアーグラ周辺のジャート族が重税に抗議して反乱を起こすようになり、デリーとデカンをつなぐ公道を旅する旅人や商人の隊列を略奪するようになった。1691年以降、ジャート族はチューラーマンに率いられて反乱を起こし、アーグラの西のバラトプルを拠点に半独立の政権を持つようになった。 1690年代、ベンガルでも深刻な反乱が起こり、反乱勢力は最大時には歩兵60000人、騎兵10,000人で各地を荒らし、ベンガルの農作物がデカンに届かないという事態に陥った。アウラングゼーブはこれを解消するため、孫のアズィーム・ウッシャーンとその補佐ムルシド・クリー・ハーンをベンガルに送り、1698年にこの反乱を鎮圧したが、ベンガルは長く続いた反乱のため疲弊した。 一方、デカン地方では、アウラングゼーブがビジャープル王国とゴールコンダ王国の旧領にムガル帝国の行政制度を敷こうと尽力していた。だが、ゴールコンダでは比較的たやすく進行したが、マラーター王国領に隣接していたビジャープルではその妨害を受け、なかなか思い通りにならなかった。というのも、マラーター王国の武将はラージャーラームに付き従ったものもいれば、デカンに残った者もおり、彼らはマラーター王の檄で帝国に交戦していた。 また、帝国の領土が拡大したことにより、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国、マラーター王国の支配者層が貴族(マンサブダール)に取りたてられた。ビジャープル王国及びゴールコンダ王国に属していたものが64人、マラーター王国に属していたものが96人で、貴族全体の16パーセントを占めた。だが、マラーターの貴族はラージプートの貴族とは違い、高度なペルシアの洗礼も受けることもなく、宮廷に出ることもなかった。この貴族層の膨張はデカン戦争の出費と相まって、結果的に貴族全体の給与の大幅な減少につながった。
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