諜報指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 13:46 UTC 版)
1919年6月、帰国したヒトラーをスカウトし、潜入諜報員および宣伝演説者とした。マイヤーはアウクスブルク・レヒフェルトの国軍施設でヒトラーに講習を受けさせ、「戦争で士気が阻喪し「ボリシェヴィキ化」した部隊に民族主義を植え付けさせる」ための訓練を施した。講習の修了後、マイヤーはヒトラーに対し、ミュンヘンの兵舎に赴いて反ボリシェヴィキ宣伝演説をするよう命じた。さらにヒトラーは、この時期ミュンヘンに乱立していた政治組織の集会に参加・潜入して観察するよう命じられていた。彼は集会に参加してはその政治的主張・目的・手段について逐一マイヤーに報告した。 1919年9月12日、マイヤーの指示でヒトラーはアントン・ドレクスラーが設立したドイツ労働者党の集会に参加し、彼が掲げる反ユダヤ主義・反共産主義に感銘を受けた。また、ドレクスラーもヒトラーの弁舌能力に感銘を受け、入党を求めた。9月16日、ヒトラーが反ユダヤ主義思想を文書で示した最古の記録である「ゲムリッヒ書簡(英語版)」が書かれたが、これはマイヤーの指示によるものであった。 10月3日の集会にも参加したヒトラーは入党を決意し、マイヤーに対して「この人々は前線の兵士の思想を主張しているため、入党を許可していただきたい」とする報告書を提出し、入党した。また、マイヤーは国軍将校の政治団体「鉄拳団(ドイツ語版)」にも参加しており、ヒトラーを集会に連れて行き、代表者であったエルンスト・レームと引き合わせた。 1920年3月のカップ一揆の際、マイヤーはベルリンの情勢を探らせるため、ヒトラー、ディートリヒ・エッカート、ローベルト・フォン・グライムを派遣した。7月8日、マイヤーはカップ一揆の首謀者ヴォルフガング・カップに手紙を送ったことを咎められ、第7軍管区参謀部を最後に軍から退役させられた。 ヒトラーはマイヤーの命令を遂行したことをきっかけとして政界に入り、やがてナチス・ドイツの総統となったため、彼は「ヒトラーの発見者」、「ヒトラーを政治の舞台に導いた人物」としてときに過大評価されがちであるが、彼は指揮下にあった全ての部下に同じことをするよう命じており、ヒトラーだけを特別扱いしていたわけではなく、また彼の政治的才能を特別に見抜いていたなどという証拠もない。なお、マイヤー自身はナチ党員にはならなかった。
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