試合で投じるのは数球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:20 UTC 版)
杉下は日本初のフォークボーラーとして名を売ったものの、現在のフォークボーラーのような高い奪三振率は記録していない。その理由として「フォークボールを『最後の切り札』とする信念のもと、勝負所でのみ投じていたため」である。そのため、1試合で投じるフォークボールは多くても5~6球程度と少ないものだった。杉下はフォークボールについて、「神様用のボール」と述べたうえで、「神様以外には見せ球しか使っていないが、それだけで相手は(フォークボールが)いつ来るかで迷ったという。また、『神様を倒して日本一の投手になる』と思っていた」と述べている。ある日、広岡達朗から、川上が杉下のフォークボールの打ち方を寝ないで研究していたことを聞くと「川上さんにも打たれたことは無い。流石に真っ直ぐ(直球)だけだとやられるから、“神様”を誤魔化すための球だった。僕の現役時代を知らない人はフォークボールばかり投げていたと思っているかもしれないが、(フォークボールを投じるのは)1試合で数球だ。しかも(プロ入りした)1949年から日本一になった1954年まで。現役は1961年まで続けたが1955年以降はほとんど投げていない。直球に自信があったし、まやかしのボールで打ち取っても面白くなかった。初対戦の打者にはまず投げない。まず外角低めへ2球、最後は内角高め。最初に内か外かは投げた本人にも分からない。捕手はミットを左右に動かして球を追いかけても捕球出来ないから、よくバッテリーを組んだ河合保彦は身体で止められるように中腰で構えていた。投げる目標は河合のマスクの奥のおでこ。高めギリギリに投げて捕手の手前でバウンドしたから、落差は最大で1メートルくらいあったと思う。サインはパーで直球、グーがカーブ、チョキがフォーク」と述べている。 杉下は、あくまでも配球は速球中心とし、そこにカーブなどの変化球を交えるスタイルで、フォークボールには固執しなかった。しかし、直球勝負にこだわりすぎるあまり、1956年3月25日には樋笠一夫に日本プロ野球史上初となる「代打逆転サヨナラ本塁打」を浴び、広岡にもサヨナラ本塁打を打たれている。さらに選手晩年には新しい投球方法を模索するも結果が出ず、1961年に移籍した毎日大映オリオンズでは僅か4勝に終わり、フォークボールに回帰することなく同年限りで現役引退した。引退後の自著では、現在のフォークボーラーのようにフォークボール中心の投球を行っていれば、それ相応の成績が残せていたかもしれないと回想している。
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