試合でのトラブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:53 UTC 版)
上記のように闘志を露にする性格のため、審判などとのトラブルがしばしばあったが、その中で球界や球団まで巻き込む騒動となった以下の事件がある。 1954年7月25日の対中日ドラゴンズ戦(大阪スタヂアム)では、代打に起用された真田重男の打席での打球処理判定を巡って阪神側が抗議した際に、球審の杉村正一郎に暴行(肩、もしくはプロテクターを数度突いたとされる)を加えて退場を宣告された(この時の紛糾でファンがグラウンドになだれ込み、1時間7分中断)。しかし、そのことを理解していなかった藤村が、試合再開後に回ってきた自らの打順で打席に立とうとしたため、ファンが再びグラウンドになだれ込んで収拾がつかなくなり、タイガースの没収試合となった。大阪スタヂアムでの騒動を受けてセントラル・リーグから藤村に対して出場停止処分のペナルティが科されたことにより、自らの連続試合出場の記録が1,014試合で途絶えた。「連続試合出場」の記録が注目されたのはこの事件からである。連続試合出場を知っていた監督の松木謙治郎は、藤村への懲罰を阻止するために自らが矢面に立とうと杉村球審に手を出した が、その苦労は報われなかった。この事件を大和球士は、『真説日本野球史7』(ベースボール・マガジン社刊)の中で「難波事件」と呼び、『「平和台事件」と並ぶプロ野球史上、双璧をなす大騒動』と記している。 1955年4月7日、沼津市営球場での対大洋ホエールズ戦、7回2死の場面で四球を選び出塁すると、監督の岸一郎は藤村に代走として石垣一夫を送った。しかし、藤村はこれに反発し、交代を拒否しようとした。この事件が岸の更迭に大きく影響した。
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