計画に至る過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 12:33 UTC 版)
1910年(明治43年)8月5日頃から関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめて太平洋上へ抜けた台風と、14日に山梨県甲府市から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現・隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほか、右岸でも中条堤の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断。死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸に及ぶ甚大な被害を引き起した。また、利根川や多摩川水系も含んだ東京府全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌1911年(明治44年)、政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先して荒川放水路の建設を決定する。 内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官の青山士らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは1913年(大正2年)のことである。 この用地買収は実に1000ヘクタール、1300戸に及ぶ。これにより、南葛飾郡の大木村、平井村、船堀村の3村が地方自治体としては廃止となり、周辺の町村へ編入されていった。
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