西部方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 15:33 UTC 版)
「ロバート・ロジャーズ」の記事における「西部方面作戦」の解説
「ピット砦」も参照 1759年にケベック市が陥落し、1750年にはモントリオール市も落ちた。東部におけるインディアンの植民地人に対する活動が停まったので、そこでのロジャーズの任務も終わった。アマースト将軍は西部のピット砦(元デュケイン砦)の指揮官ロバート・モンクトン准将の下にロジャーズを転籍させた。モンクトンはアマーストの忠告に従い、遙か北にあるデトロイト砦の攻撃にレンジャーズ部隊を派遣し、これに成功した。 1760年11月29日、ロジャーズは五大湖にあるフランス軍基地の降伏を受け入れた。これが最後の任務になった。その後間もなく、レンジャーズは解隊された。モンクトンはロジャーズにサウスカロライナで正規兵1個中隊を指揮する任務を提案したが、ロジャーズはサウスカロライナを訪れた後でニューヨークの中隊を指揮する方を選んだ。しかしその部隊も間もなく解隊され、ロジャーズは休職給での退役に追い込まれた。 ロジャーズは軍隊に関わる必要がなくなったので、ニューイングランドに戻り、1761年にはエリザベス・ブラウンと結婚し、ニューハンプシャーのコンコードで彼女と共に家造りに取り掛かった。ニューイングランドの人々多くと同様、彼等はサンフランシスで捕らえたインディアンの少年を含め、奉公人と奴隷を持っていた。 歴史家の中には、当時のロジャーズの財政状態が、後に語っていたほど裕福なものではなかったと指摘する者がいる。ロジャーズはその従軍に対する補償としてニューハンプシャー南部の広大な土地を受け取っていた。彼はその多くを利益を出して売り払い、奴隷を購入し維持することができた。ロジャーズは土地を妻の家族に譲渡していたので、それが後の妻を支えることになった。 平和な時代にもロジャーズの魂は休むことを知らなかった。植民地人は散発的に起こるインディアンの行動を抑える過程にあった。1761年後半、ロジャーズはノースカロライナのチェロキー族を平定する目的で傭兵の1個中隊を指揮する仕事を受けた。 1763年2月10日、パリ条約でフレンチ・インディアン戦争が終わった。ロジャーズは自身を金儲けのために働く軍人だと理解したが、このときも休職給だった。後にロジャーズの最悪の敵となったトマス・ゲイジ将軍は、「もしロジャーズに全額給与を払っておれば、後に彼に不似合いな任務を与えることを防げただろう」と語っていた。
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