西走・最期とは? わかりやすく解説

西走・最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 22:05 UTC 版)

平資盛」の記事における「西走・最期」の解説

『平家物語』の「太宰府落」で資盛は元重盛家人であった豊後国緒方惟義説得工作向かって追い返されているが、『玉葉』の寿永3年2月19日条に資盛と平貞能豊後国住人によって拘束され風聞記されている。寿永2年1183年10月平氏九州太宰府追われ四国屋島に向かうが、この際に貞能が出家して一門離脱した。また弟の清経入水している。また11月12日には院近臣平知康書簡送って帰洛したい旨を伝えようとするが、帰京はかなわなかった。 寿永3年1184年正月屋島拠点置いて一時勢力回復した平氏摂津国福原まで進出正月末に義仲滅ぼした源頼朝代官源範頼義経軍勢平氏追討に向かう。資盛は弟の平有盛、師盛らと播磨国三草山に陣を置くが義経軍夜襲を受け、讃岐国屋島敗走した三草山の戦い)。その直後2月7日一ノ谷の戦い平氏一門多くを失う大敗喫する。資盛の弟平師盛もこの時に討死している。また兄の維盛この頃一門から離脱し、那智勝浦入水自殺遂げることとなる。また弟の平忠房維盛戦線離脱の際に同行していたと見られる同年12月、資盛は備前国児島源範頼戦い敗北藤戸の戦い)。元暦2年1185年3月24日平氏壇ノ浦の戦い敗れ滅亡至った。資盛は有盛と、従兄弟平行盛とともに壇ノ浦急流身を投じて自害した享年25『平家物語』では享年28という)。ただし、『醍醐雑事記』『神皇正統録』の死亡者には資盛の名はない。

※この「西走・最期」の解説は、「平資盛」の解説の一部です。
「西走・最期」を含む「平資盛」の記事については、「平資盛」の概要を参照ください。

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