西原町嘉手苅からの伝播説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 23:32 UTC 版)
「ムーチー」の記事における「西原町嘉手苅からの伝播説」の解説
『琉球国由来記』には500もの村落の聖地や行事が記されているが、ムーチーが記された地域は、首里城、金城(首里)、周辺離島、そして、嘉手苅(西原町)の4地域だけである。 沖縄本島中部、西原町の嘉手苅のムーチーは、当村落の内間御殿の行事として記されている。内間御殿は、第二尚氏初代国王となる金丸(後の尚円王)の屋敷跡に作られた祭祀施設で、尚円亡き後も、国家の聖地として、永きに渡り整備されてきた。王府の関連施設とは言え、首里から離れた一農村に、当時の最新行事があった点は興味深い。 嘉手苅の一般家庭でも庚の鬼餅が行われたとは考えにくいが、御殿は村落の中央に位置し、周囲には民家が立ち並んでいた。農村では珍しいこの条件を踏まえれば、御殿での鬼餅を村人たちが見聞していたとしても不思議ではない。 嘉手苅と鬼餅の間には興味深い共通点がある。西原町及びその周辺の市町村には、鬼餅を8日に作ると、御茶多真五郎(ウチャタイマグラー)(以下、真五郎で統一)という亡霊に腐らされてしまうため7日に行うという村落がある。真五郎は、内間御殿に隠棲中の金丸の側近であったと伝わる。武人としても有名で、嘉手苅の人であったという[『遺老説伝』(1743)]。 首里以外では早い段階から鬼餅が行われていた嘉手苅(内間御殿)、7日に行う理由とされる武人の所在地は嘉手苅と、鬼餅に関する書物と民間伝承の間に「嘉手苅」という奇妙な一致がみられる。 以上から、次のことが考えられる。嘉手苅では、王府の関連施設の内間御殿が村落中央に位置するという条件から、逸早く一般家庭でも鬼餅が行われるようになった。そして、その鬼餅は7~8日の2日間かけて行われていた。「嘉手苅には古くから鬼餅があり、他と違って、7日から始める」、これに真五郎と縁のある村落という伝承が混ざり、真五郎が原因で7日に行うという伝承が生まれたと考える。これは沖縄本島においては、首里以外では、古い形の鬼餅(7日)は、西原町の嘉手苅一帯から、拡がり始めた可能性を示唆している。 沖縄本島中部では、村落の歴史の新旧によって7日と8日の村落が混在する中、西原町の低地では、7日が根強いのは、同町の嘉手苅にある内間御殿が要因となり、一帯が7日の鬼餅の発祥地であったためと考えられるという。8日のムーチーが沖縄本島中に広まる以前から、他地域に先だって同域には7日のムーチーがみられた。旧来の7日を守った結果、濃密な7日の地帯が形成されたのではないかとされる。
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