裏貼資料の発見
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2007年(平成19年度)に本屏風は文化財修復の専門工房で修理が行われ、その課程で裏貼資料の存在が判明した。裏貼資料は屏風の裏に同一種類の帳簿が解体された状態で重なりあって貼り合わされている。帳簿は竪型で、紙の真ん中を中心に二つ折りで袋とじにされており、中心線を基準に半丁ごとに切断され、判読し得る分に限れば59枚分が確認されている。うち、7枚(14頁分)が表裏ニ頁分が完全な状態で残されている。 裏貼資料は近代期の遊女屋(借座敷)に関する資料と判断され、「室ノ番号」「登楼日時」「退出日時」「娼妓名」「遣払金高」「止宿所」「住所」「氏名」の各項目が青色インクの一覧表として印刷され、警察の担当者のものと思われる検印も捺されている。近代期の遊女屋においては治安維持の観点から遊客人名簿の作製と5年間の保管が義務付けられており、当資料は警察が遊客を把握するために作製され、保存期間を過ぎ廃棄された後に古紙業者を介して屏風の裏貼に転用されたものであると考えられている。 当資料は記されている遊客人の住所や船名の記載から横浜市中心部の港湾近くにあった遊女屋の遊客人名簿であると推定され、記載された地名の分析 や船舶の活動期間 から、当資料は明治30年から明治40年にかけて作製されたものであると考えられている。また、この推定期間に横浜において営業を許可されている遊郭は真金町・永楽町の2町に絞りこまれる。 近代期の遊客人名簿は保存期間を過ぎれば廃棄され、その性格から公にされる機会が少なく戦災などで焼失している例も多いことから歴史史料として貴重であり、当資料も近代期の横浜遊郭の実態を知る史料として活用されている。 また、裏貼資料の年代分析と来歴から、甲州道中図屏風は明治30年から40年代に横浜近辺において表具され、本来の巻子状であった屏風絵を所蔵していた人物も横浜近辺に居住していた可能性も考えられている。
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