表現主義、アルテポベラからバイフロンテスまで
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「アントン・ラマザレス」の記事における「表現主義、アルテポベラからバイフロンテスまで」の解説
(マドリッド ‐ニューヨーク、 1978-1989) 1978年、ラマザレスはマドリッドに移り、画家のアルフォンソ・フライレ、画商のフアナ・モルド、美術批評家兼詩人であるサンチアゴ・アモンと親交を深めた。また、作家、映画監督、音楽家、画家などから成るアーティストのグループとのつなぎ役となる、神経科医アルベルト・ポルテーラと親交を深めた。アーティスト達は週末ごとに彼のマタボリコスの別荘に集まった。ポルテーラの別荘で、1979年、ラマザレスは屋外展示会を開くことになった。同年、ジョアン・ミロに会い、プロバンスを旅し、ゴッホ、ピカソ、セザンヌ、マチスの描いた風景に身を浸した。80年代は、激しい創作活動の時代で、創作の幅も広がった。30歳にして、ラマザレスは、スペイン美術界とともに、国際的な美術界の中に自分の空間を刻みこむに至っていた。当時の彼の作品は、表現主義的な形式を用い、楽しげな、夢のような人物を、色彩豊かに、独特のタッチで描いている。ラマザレスはマドリッドにあるフアナ・モルドのギャラリー、ベルギーのエリザベス・フランクのギャラリー、バルセロナのサラガスパールで展示を行った。 その後すぐ、フルブライト奨学金を受けたラマザレスはニューヨークに拠点を移し、2年間滞在した。ニューヨークでは、ブルーノ・ファチェッティ・ギャラリーで展示を行い、作品はより純粋でより物質的な方向へ向かった。一時期、ニューヨークとサラマンカを行き来していた。1988年、ラマザレスはヘルダーリンの『ヒュペーリオン』へのオマージュとして、ディディマの神殿を訪問するためにアナトリアを訪れた。イスタンブールでは、ビザンチン時代の教会に深く感銘を受けた。このときの彼の感銘は、木を組んだ絵によって如実に表現されており、それらの作品はガレリア・ミゲル・マルコスで見ることができる。 1990年、ラマザレスは両側から鑑賞できるようにデザインされた作品シリーズを準備し始め、それらを「バイフロンテス(正面が二つある)」と名付けた。 「黄昏の等距離よりアントン・ラマザレスによって提示された神話と形は、別世界への境界線を越えることではなく、この世界の無限性をはっきりと示しているのだ。ラマザレスは真のアーティストであるがゆえに無限性という次元の目撃者になるのである。偉大なアーティストだけがこの次元を喚起し、神話に変換することができるのだ」 サンチアゴ・アモン『La pintura de Lamazares y la luz crepuscular』1986
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