表現主義とミュンター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 15:28 UTC 版)
「ガブリエレ・ミュンター」の記事における「表現主義とミュンター」の解説
はじめドイツ表現主義に対して、フォーヴィスムの劣化コピーに過ぎないとの論調があった。なかんずくフランス国内ではほとんど黙殺されていた。その後、ドイツ現代芸術はナチスの一方的な芸術政策によって致命的な打撃を受け、多数の芸術家がドイツ国外に亡命しドイツ表現主義に対する正当な評価もなされなかった。第二次世界大戦後は芸術界がそれまでのパリ一元的な風潮から変化し、ニューヨークが芸術の一大中心となったこともあって、積極的にアメリカからドイツ表現主義の再評価がなされた。とりわけ、青騎士をはじめとする20世紀初頭ミュンヘンでの芸術運動が近代絵画への突破口を開いたと言われる。ミュンターももちろん、その重要な一翼を担っていた。ミュンターは単純化されたフォルムと色彩で対象を抽象化しているが、完全な抽象絵画へ移行することはなかった。芸術の前衛という点においては、その後抽象絵画へと進んで行ったカンディンスキーの方が進歩的であったといえる。だがこのことは、決してミュンターの到達点の低さを示すものではない。彼女は1911年の日記の中で、「モティーフの内面にあるものを感じ、モティーフの本質を抽象化して表現できるまでに躍進することができた」と語り、同時に、このきっかけとなったのはフランスの総合主義であったと自己分析している。ミュンターにとっての抽象化とは、モティーフが持つ形と自分自身の持つイメージとを総合させることであり、そこに彼女の芸術のオリジナリティがあったといえる。表現主義の展開は、青騎士の芸術家たちと相互に影響し合ったミュンターなしにはあり得なかったのである。
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