蟻よバラを登りつめても陽が遠い
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評 言 |
昭和十一年六月二十日、鳳作宅で開かれた「傘火」例会に出された句で、「サンデー毎日」八月九日号の「サンデー俳壇」に掲載され、「傘火」九月号に転載されて、鳳作最後の発表作品となる。 鳳作の絶句とされるものは他にあるが、この句は絶句に等しい趣を持つ。彼の評伝『鳳作の季節』を書いた時は夢中で余り分からなかったが、こうして五年経って、自分の句集も出してみると、志半ばで逝った鳳作の悔しさや辛さがこの句から切々と伝わって来るのである。 この句について、ホトトギス派の原石鼎は先の「サンデー俳壇」で「光景としても、作者の心持に訴えているものも、決して悪くはない。口語体で結ばれたところ、功を奏している」と大いなる賛辞を述べている。 また、かつて同じ鹿児島で「傘火」の鳳作と良きライバルであった「仙人掌」の前原東作は、後年この句を評する中で「鳳作は無季俳句というよりも、俳句近代派の詩人という方が適切かも知れない。」(「篠原鳳作の一句」「俳句研究」昭和四十六年九月号)と述べている。 鳳作を「無季陣中第一の作者」と評した水原秋桜子も、詩の表現を俳句に取り入れようとする試みにおける鳳作の功績を認め、その夭折を惜しんでいる(「俳句と朗誦の問題」『俳句雑談』)。 子規は「俳諧の発句」を約めて「俳句」と命名した。しかし、子規の思惑とは係わりなく、俳句は俳諧から独立した時点で、発句にも俳諧にも限定されない、もっと別物の自由で新しい短詩形式となった。 それは従来の要素を包含しつつも、座の文芸ではない個の文学としての更なる大いなる可能性を蔵している。鳳作の句はそうした俳句の可能性の一つを如実に指し示したものである。 写真は鹿児島県長崎鼻の鳳作句碑。撮影も筆者による。「しんしんと肺あおきまで海の旅」「満天の星に旅ゆくマストあり」「幾日(いくか)はも青うなばらの円心に」 |
評 者 |
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備 考 |
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