藤井非三四の論考
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:24 UTC 版)
藤井非三四は、陸幼組が陸軍先進国の言語であるドイツ語・フランス語、仮想敵国の言語であるロシア語を学んだのに対し、英語しか学んでいない中学組が、陸大合格率・陸大卒業席次の双方においてハンデを負っていたと指摘する。 藤井非三四は、 中央三官衙の要職の筆頭と言える参謀本部作戦課長(参謀本部第二課長、昭和11年6月から12年11月までは第三課長)についてみると、陸士15期以降では中学組が補職されたのは今村均(陸士19期、陸大27期首席)のみで、他は陸幼組で占めた。今村は、作戦課長在任中に満州事変が起きると、処理方針を巡って孤立無援の状態に陥り、特に失策がなかったにも関わらず、わずか半年の在任で更迭される悲運に遭った。 陸軍省軍務局軍事課長についてみると、昭和に入ってからは陸幼組が独占した。 人事を扱う部署についてみると、陸軍省人事局長は昭和に入ってから中学組が補職されたのは川島義之(陸士10期)のみで他は全て陸幼組が占め、陸軍省人事局補任課長は陸幼組が独占し、参謀の人事を扱う参謀本部庶務課長も陸幼組が独占しており(陸幼組でない牛島貞雄(陸士12期)は陸軍教導団出身)、「人事は陸幼組が独占」という状況であった。 陸士19期は、日露戦争中の初級将校の大量損耗に狼狽した当局が臨時に募集した期であり、1,200名という異例の多数を採用し、中学組のみから構成される特異な期であった。陸士19期で陸大恩賜組に入った者は今村均(陸大27期首席、昭和18年5月に大将)、田中静壱(陸大28期恩賜、昭和18年9月に大将)、河辺正三(陸大27期恩賜、昭和20年3月に大将)、本間雅晴(陸士19期歩兵科恩賜、陸大27期恩賜、中将で昭和17年8月に予備役(第14軍司令官としてフィリピン攻略に当たった際の不手際を問われた))の4名を数えるが、いずれも人事上は不遇であった。 という4点を指摘し、陸幼組には親身に面倒を見てくれる先輩がいたのに対し、中学組にはそれがなく、幼年学校閥という「見えざる壁」が合理的な人事を阻んだ面があると述べている。
※この「藤井非三四の論考」の解説は、「陸軍幼年学校」の解説の一部です。
「藤井非三四の論考」を含む「陸軍幼年学校」の記事については、「陸軍幼年学校」の概要を参照ください。
- 藤井非三四の論考のページへのリンク