萩形集落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 00:15 UTC 版)
萩形地区は小阿仁川の上流部にあった奥地の集落である。谷間は小盆地でありおよそ30ha近い耕地が開かれていた。山を超えて五城目町との交渉が深く、水沢の松樹院を菩提寺とした。昭和45年の鈴木万次郎『はぎなり』によると、1822年(文政5年)に阿仁の萱草や根子から11世帯が移住して村が開かれたとする。昭和36年頃が最盛期で38戸だった。昭和39年、萩形ダムの建設により17戸が移住し、昭和40-43年にかけて9戸が個人移住、集落再編事業により12戸が集団移転して無人となった。移住先は村内が7戸、五城目町が24戸、森吉町、八郎潟町、秋田市などである。沖田面小学校萩形分校は明治33年開設、昭和44年に閉校した。一時期中学校の分校も併設された。営林署の事務所は明治38年設置、昭和44年廃止された。森林軌道は大正14年開通し、昭和38年に廃線となった。電気は昭和39年に導入され、電話は昭和41年に開通された。昭和45年に「離村記念碑」が建立、昭和45年に『はぎなり』、昭和61年に『萩形の変遷と教育』が上小阿仁村教育研究所から発行された。現在は田畑は杉林になり、墓地は移転し供養塔が立ち、神社のみが残っている。村人はダム建設によって四散した。移転者は「集団移転の要望を幾度も続けましたが取り上げてもらえませんでした。血の通わない行政が、萩形の住民を引き裂いたものと、今も当時の関係者に強い不満を抱いております。」と証言する。 江戸時代に萩形集落を開発したのは五城目町の渡辺彦太郎である。あるとき、彦太郎は工事完成を祈るために太平山に登り、萩形に下山した。村の人々は彦太郎に豆殻を砕いた食事を出してもてなしてくれた。彦太郎は山村の人々も米の飯を食べるようにならなければと思い工事にとりかかり、山地に用水路を通し6町歩の開田をした。現在、萩形集落跡には萩形キャンプ場がある。
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