荘園と海賊衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 09:38 UTC 版)
中世、この島は「大崎荘」という荘園であった。記録によると、建長5年(1253年)近衛家領に大崎荘の名が出てくる。時代が下ると、康正元年(1455年)で大崎両荘(東・西荘)、文明12年(1480年)でこれに加え大崎中庄の名が記録に残る。 年貢は、瀬戸内海の他の島々と同様に「塩」であった。畿内に向け塩が運ばれたことにより交易網ができていき、その海路を水先人として取り締まる海賊衆が生まれるのである。この島にも海賊衆がおり、最終的には「大崎衆」と呼ばれた集合体となった。文禄4年(1595年)小早川古文書には大崎衆として、沖浦葛城主・土倉源右衛門、大崎東庄代官・有田善右衛門、大崎中庄代官・金山清兵衛、大崎西庄代官・田坂庄兵衛、の名が書かれている。 島全体に中世の城址が12ヶ所存在するが、これらは大崎衆のもの、あるいは安芸小早川氏と村上水軍などの伊予河野氏系海賊衆との縄張り争いの中で造られたものと推定されている。大崎衆は戦国時代になると忠海を拠点とした小早川庶家の浦宗勝の傘下に入ることとなり、小早川水軍そして毛利水軍に組み込まれることになる。記録によると、厳島の戦いの前には毛利方に組み込まれており、第一次木津川口の戦いなどに従軍している。天正16年(1588年)海賊停止令により海賊勢力は解体されることになる。木江は文禄・慶長の役において造船港となった。 中世から江戸時代初期まで大崎上島は「大崎島」の名で通っていた。例えば元和5年(1600年)の知行帳や、江戸時代初期の地誌である『藝備國郡志』にその名で記載されている。一方で現在の大崎下島は、中世までは「下島(あるいは御手洗島)」とよばれ伊予国三島領(大山祇神社領)であった。江戸時代に大崎上島・下島ともに広島藩蔵入地となった。大崎上島・下島の名が出てくる時期は不明だが少なくとも江戸時代のことで、例えば伊能忠敬『日本實測録』には「大崎上島、周廻一十二里一十一町七間」「大崎下島、周廻五里二十七町四十九間」で記載されている。
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