荘園の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
唐の均田制は不徹底であり、初唐から荘園が存在していた。初唐の荘園は皇族と貴族層によって経営されていた。荘園のうち、また、公田として官僚に与えられた職分田と閑人営業田があった。また、封爵によって与えられ、国家に納める税をその家に給付する食封田も存在した。 荘園の大きさは大体10頃から100頃(58 - 580アール)の大きさで、雇い入れた客戸(本籍地を離れた民)あるいは奴婢に田地の耕作や農産物の加工などに当たらせる。また土地の転借小作を合法としていたため、その土地を小作農に貸し出す場合もあり、その際に種籾や耕牛などを貸し出すが、その借賃で小作が破産しそのまま奴婢となる例も多かった。転借小作によって、荘園をもつ地方豪族の土地合併は盛んとなった。 盛唐以降は新興地主層が荘園の主な経営者となり、転借小作による農民からの土地合併はさらに盛んとなった。唐代中期には、大土地私有制が進行し、均田制は崩壊する。両税制の制定以降、政府は農民の慢性的な土地不足の解消を断念し、政府は口分田を捨てて耕作していた逃戸の土地を全て没収し、公田とし、その公田を官直属の荘園とし、国家所有のものを官荘、皇帝所有のものを皇荘として、管理する役人を設置し、民を徴発して土地を開発する。 また、藩鎮も積極的に貧農を雇い官田の経営を行った。宗教には各種の保護と特権が与えられ、寺院は多くの土地を所有した。寺院は耕作するにおいて、賦役を免ぜられ、均田制の影響を受けることはなかった。寺院の荘園は唐代に発展し、しばしば皇帝や信者から耕地が寄進され、累積された荘園は広大であった。 官僚荘園は、碾磑や牧場、質藏を有していたこともあったが、産業を集合した経済主体となることはなかった。
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