荘内銀行時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:29 UTC 版)
1994年、荘銀副頭取に着任する。当時の荘銀はバブル崩壊による株価低迷や運用の失敗等で149億円に及ぶ含み損を抱え、大蔵省から決算承認銀行の指定を受けていた。そこで閉塞感を打破することや、全行員に対する意識改革を促す端緒とすべく、町田の主導によって行員の約1割を富士銀本部部署へトレーニーとして派遣することが企画された。その最中には、町田が古巣の総合企画部を訪れ、80名ほどの管理職から女性に至る総員に「迷惑をかけるがよろしくお願いします。」と頭を下げて回った。その様子を伝え聞いた派遣行員は、町田の経営改革にかける熱意を感じ取った。 1995年、頭取に昇格する。在任時はヒト、モノ、カネそして情報の集積する山形市周辺部への攻勢の橋頭堡として荘銀山形ビルの建設、東証1部への上場さらには、新たなリテールチャネルとしてのインストアブランチの展開開始等、都銀で培ったノウハウをアレンジして矢継ぎ早に施策を講じ、従来「殿様銀行」などと揶揄されていた弛緩した組織に大変革をもたらし、小粒ではあるが個性の光る金融機関へと変貌を遂げさせた。そして、1999年の暮れには規模の拡大を狙い殖産銀行との対等合併を発表。名称もミライオン銀行と決定されるも、システム統合で合意が得られなかったことや、殖銀内部に反対論が台頭し、2000年4月、合併は白紙還元に至った。
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