木下重堅
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木下 重堅(きのした しげかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。因幡若桜城主。官位は従五位下・備中守。通称を平太夫や備中守とし、荒木重堅や木下備中守ともいった。
- ^ a b 安都部彌市郎(あとべ やいちろう)。「彌一郎」とも記されている。安都部(跡部)氏ついては記述はない。
- ^ 「重堅」はしばしば「重賢」と表記されることがある。
- ^ a b 在鳥取県八頭郡若桜町若桜。
- ^ 小泉 1914, 国主之部五 p.14
- ^ 三田城の後任である山崎堅家の子家盛(左馬允)の家臣[4]。
- ^ 楢柴竹造『八頭郡史考』(横山書店、1923年)
- ^ 香川 1911, p.70
- ^ 香川 1911, p.271
- ^ a b c d e 谷口 1995, p.28
- ^ 『滝安寺文書』[9]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』による。
- ^ 『三百藩藩主人名事典』藩主人名事典編纂委員会/編 新人物往来社 1986年
- ^ 小泉 1914, 国主之部四 p.28
- ^ 高柳 & 松平 1981, p.15
- ^ 景石城(用ヶ瀬城)主。重堅の配下の属将で、2万石内から3千石の扶持が与えられていた。
- ^ 筆頭は毛利輝元の金300枚。近隣では宮部継潤50枚、南条元続30枚など。
- ^ 小泉 1914, 国主之部五 pp.11-13
- ^ 垣屋恒総も千手谷で後に自殺。
- ^ a b 小泉 1914, 国主之部五 pp.13-14
- ^ 亀井茲矩は関ヶ原本戦にも参加した。
- ^ 小泉 1914, 国主之部五 pp.15-17
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