地方政権から
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:01 UTC 版)
豊臣秀吉は織田信長の武将として所領を拝領し、当初は信長の代官的存在であったが時代を経て独自の知行宛行などの領国経営を行う地方政権へ移行していった。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡すると、秀吉には「江北浅井跡一職」が信長より恩賞として与えられたといわれるが、管轄範囲としては近江国の伊香・浅井・坂田3郡のうち滅亡時の浅井領であり、長浜城を中心に支配を行った。天正9年(1581年)ごろから長浜領は秀吉の養子であった羽柴秀勝が担当した。 天正5年(1577年)10月から秀吉の播磨侵攻が始まり、天正8年(1580年)4月から5月にかけて播磨国が平定されると、赤穂・佐用2郡を除く播磨国の支配権が秀吉に与えられ、黒田孝高が与力から秀吉家臣となるなど、播磨衆が配下に加わった。 この頃、播磨侵攻と同時期に但馬侵攻も始まっており、竹田城には羽柴秀長が城代として配置された。天正8年(1580年)5月には出石城の攻略により但馬が平定され、秀長や宮部継潤、木下昌利らによる支配が始まり、但馬衆が配下に加わった。 天正9年(1581年)10月、秀吉は因幡国鳥取城を攻略し、宮部継潤を城代に置いて支配を開始し、八東郡(鬼ヶ城)に木下重堅、智東郡に磯部康氏・八木重信、巨能郡に垣屋光成、八頭郡に山名氏政、鹿野郡に亀井茲矩、高草郡吉岡に多賀備中の因幡衆を宛った。備前・伯耆についても秀吉は勢力を進めたが、味方となった宇喜多氏などへの処遇は信長が直接行っており、秀吉の直接支配が及ぶのは本能寺の変の後となった。
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