地方政治での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:47 UTC 版)
1912年(民国元年)3月、中華民国臨時大総統となった袁世凱から、田文烈は総統府軍事顧問に任命された。1913年(民国2年)8月、山東民政長兼軍務会弁に異動した。田は、ここでも内政に手腕を発揮し、省内の匪賊掃討により治安を回復しただけでなく、財務整理や実業振興でも大きな成果をあげた。 1914年(民国3年)2月、田文烈は河南民政長(5月より巡按使)に異動し、白朗討伐に貢献した。同年4月、署理河南都督を兼任し、同年6月、制度改正により河南将軍となる。しかし、同年9月に趙倜が河南将軍に就任したため、田は河南軍務会弁兼巡按使に転じた。田は、洪水被害で苦しんでいた河南省のために、省水利委員会を組織して治水・水路事業に尽力した。さらに、自己の私費まで投じて林業・養蚕業などの実業を振興し、各地に学校を建設するなど教育事業でも辣腕を振るった。
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