荒川の瀬替と瓦曽根溜井
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 15:03 UTC 版)
慶長年間(1595年~1615年)後期には、荒川(元荒川)下流部 の越谷地先(越谷市越ヶ谷)で、瓦曽根溜井が設けられ、末田須賀溜井と共に広範囲にわたり、水田開発と灌漑を行った。また、1629年(寛永6年)、関東郡代伊奈忠治は、荒川を石原村地先(熊谷市石原)で締切り、流域外の南側に流れる和田吉野川に付替えた。その結果、元荒川は水源を失い、綾瀬川の水量は減り、瓦曽根溜井や綾瀬川から導水していた亀有溜井も水不足となった。1630年、1631年(寛永7、8年)頃、幕府は元荒川の加用水として、利根川(江戸川)の庄内領中島(幸手市中島)から幸手領八丁目村(春日部市八丁目)の古利根川まで中島用水を開削し、松伏地先(松伏町松伏)に設けられた松伏溜井の堰から大沢村(越谷市大沢)の瓦曽根溜井まで鷲後用水路(逆川)を開削し、導水を行った。この一連の工事は1633年(寛永11年)に完了し、亀有溜井への加用水も可能となった。さらに1629~31年(寛永6~8年)にかけて慶長年間に八条領(八潮市)の湿地干拓の為に排水路として開削された葛西井堀(現葛西用水路)が拡幅され、亀有溜井への送水路として葛西地域の用水を送る役割を担う事となった。
※この「荒川の瀬替と瓦曽根溜井」の解説は、「亀有溜井」の解説の一部です。
「荒川の瀬替と瓦曽根溜井」を含む「亀有溜井」の記事については、「亀有溜井」の概要を参照ください。
- 荒川の瀬替と瓦曽根溜井のページへのリンク