草津湊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 22:32 UTC 版)
草津湊は、平安時代明治時代の初めごろまで、現在の京都市伏見区横大路付近の桂川左岸にあった川の湊である。 草津湊は平安時代から都へ物資を運ぶ湊として発展していた。平安時代の草津湊の場所は中島村・下鳥羽村・横大路村の辺りにあったとされているが、場所は特定できない。その理由は、洪水や、宇治川・桂川等による河川改修で、河川の流路が大きく変わり、湊の痕跡がなくなったからであると考えている。草津湊の名前は、現在の伏見区横大路草津町に引き継がれている。江戸時代、草津湊には、大阪より百石舟が出入りしていて、物資はここで舟に踏み替えり、陸揚げされた。これより上流は鴨川が浅くなり、百石舟が上げられなかったためと考えられている。草津湊には、大阪・和歌山・四国から生魚・米・豆・雑穀・材木などが陸揚げされ、生魚は草津湊の浜問屋で取り引きされ、走りとよばれた仲仕によって京の都へ運ばれた。菅原道真が九州太宰府に流された時や藤原道長が宇治の別荘に出かけた時、崇徳上皇が讃岐国に流された時や高倉上皇が厳島神社参拝した時、建礼門院・後白河院ほか平家一門などが福原遷都で移った時、法然上人が讃岐国に流された時なども草津湊から乗船したと考えてられている。また、おとぎ話のお伽草紙も京の都に上る時に、お椀の船が着いたのも草津湊と言われている。江戸時代前期の寛文地震で二条条の石垣が崩れ、修繕のために各地から大石が運ばれた。その際、何らかの理由で桂川に沈んでいた7つの大石が引き上げられ、「草津みなと残念石」と命名された。明治10年の京都神戸間の鉄道開通によって草津湊や魚市場は衰退した。
※この「草津湊」の解説は、「鳥羽街道」の解説の一部です。
「草津湊」を含む「鳥羽街道」の記事については、「鳥羽街道」の概要を参照ください。
- 草津湊のページへのリンク