英国病の正体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 06:26 UTC 版)
バークレイズは総力をあげてグローバル化していった。1968年にユーロクリアができたが、その翌年にバークレイズは、ロンドン手形交換所加盟銀行のひとつ(Martins Bank)を買収した。この銀行はガーディアン保険(Guardian Assurance Company, 1999年からアクサ)のメインバンクを百年以上やっていた。1971年、バークレイズは1925年に買収した南アフリカ事業を再編・改名し、またニューヨーク支店を設置した。1972年、老舗コル商会(Kol & Co)を買収した。コル商会は歴史的な投資信託(Concordia Res Parvae Crescunt)を保有し、また1926年にアムステルダム証券取引所でIGファルベンだけでなくドイツ銀行やディスコント・ゲゼルシャフトの株式発行を手がけた。1973年にバークレイズはオレンジリーフ (補給艦・3代) の建造予算を融資した。 1973年から1993年までは、会長Anthony Favill Tuke がその代理Martin Jacomb へつないだ時代である。アンソニー・テューク・ジュニアはBarclays National Bank of South Africa Limited.(1925年に買収した子会社)の持ち株をアングロ・アメリカンやデビアスへ売却したが、退社してすぐリオ・ティント会長となった。ジェイコムはクラインウォート・ベンソン・ロンズデールの重役であったので、バークレイズでは大券発行にも参加する力をみせた。二人の活躍する間、新聞支配者のベリー一族と結婚したNigel Mobbs がずっといた。ニゲル・モブズは2005年まで生きたが、確かにその間は経営に計画性があった。 1978年アメリカで外国銀行の支店設置を一つの州に限るという法律ができたが(International Banking Act of 1978)、バークレイズには例外規定が適用された。これは、1970年代に先制して州際の支店を開業していた外銀を保護するものであり、IBF構想をめぐりマクファーデン法修正論が提起される契機となった。一方で南アフリカ事業がAmerican Credit Corporation を買収して決済事業に進出した。1981年、Deryk Vander Weyer の肝いりでTimothy Bevan が会長となった。また、Frederick Roger Goodenough がバークレイズの各部門を統制した。かつてフレデリックの採用した分権主義は、グローバリゼーションの進む中でバークレイズ本社と南アフリカ事業が同じような経営を考えるようになるにつれ形だけのものとなり、やがて1985年に本社と南ア事業は互いの商号を統一した。また、この年にビッグバン用インフラBarclays de Zoete Wedd を組織した。翌年にVisaのトラベラーズチェックを買収した。1987年、John Quinton が会長となった。1980年代初頭の急拡大が仇となって、バークレイズは巨額の不良債権を抱えるようになっていた。しかし、バークレイズは英国内で大掛かりな決済事業へ投資をしようとしていた。
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