若宮八幡宮 (常陸太田市)とは? わかりやすく解説

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若宮八幡宮 (常陸太田市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/25 01:26 UTC 版)

若宮八幡宮

拝殿(2005年9月)
所在地 茨城県常陸太田市宮本町2344
位置 北緯36度32分34.8秒 東経140度31分14.6秒 / 北緯36.543000度 東経140.520722度 / 36.543000; 140.520722 (若宮八幡宮)座標: 北緯36度32分34.8秒 東経140度31分14.6秒 / 北緯36.543000度 東経140.520722度 / 36.543000; 140.520722 (若宮八幡宮)
主祭神 大鷦鷯尊仁徳天皇
倉稲魂命
社格 郷社
創建 応永年間(1400年頃)
例祭 #祭事を参照
地図
若宮八幡宮
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鳥居
神門

若宮八幡宮(わかみや はちまんぐう)は、茨城県常陸太田市にある神社旧社格郷社

歴史

応永年間(1400年頃)、佐竹義仁鶴岡八幡宮神奈川県鎌倉市)より勧請して太田城内に祀り、守護神としたのが始まりであり、それ以来、佐竹氏の祈願所となった。なお、研究によれば、佐竹氏は本来は常陸源氏の守護神として石清水八幡宮から勧請して八幡社を建立していたが、佐竹一族の反対を押し切る形で藤原氏系の上杉氏からの養子に入った義仁は上杉氏ともつながりが深い鶴岡八幡宮から勧請を行ったとみられている[1]

佐竹氏は関ヶ原の戦いの後に秋田に転封となるが、その際に大館城の守護神として当神社の神霊を城中に奉持し、のちに城の東の大館八幡神社に祀り、転封の後でも守護神としていた[2]

慶長14年(1609年)、水戸藩初代藩主徳川頼房が7歳の時、病気平癒を祈願して全快したとされる。それ以来、水戸徳川家の崇敬厚く、元禄5年(1692年)二代藩主徳川光圀水戸黄門)が太田郷の鎮守とした。

宝永5年(1708年)、並祀された太田稲荷神社と共に、太田城内から現在の地に社殿を遷した。

「鶴岡より勧請奉斎された際、鶴子なる女性が供奉して来り、祭祀を司った」という由緒に基づき、昭和15年(1940年)に氏子の巫女たちによって「鶴子舞」が奉納された。近年、この巫女舞奉納が復活し、例大祭などで「浦安の舞」「豊栄の舞」「八乙女の舞」が厳かな雰囲気のなかに愛らしさをもって奉納されている。

神楽殿

祭神

祭事

文化財

境内社

アクセス

JR常陸太田駅から北へ約1.5km。徒歩約20分。

脚注

  1. ^ 堤禎子「佐竹氏と八幡信仰」『茨城県立歴史館報』28号、2001年。佐々木倫朗 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三十巻 常陸佐竹氏』(戒光祥出版、2021年)P192-227.所収
  2. ^ 八幡神社”. 秋田県神社庁. 2015年10月12日閲覧。

関連項目

外部リンク




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