芸術性の正当化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 01:16 UTC 版)
「芸術としてのゲーム」の記事における「芸術性の正当化」の解説
出現したばかりの芸術形態が評価され、正当なものとして認められるにあたっては、たとえイデオロギー的・物質的なサポートをめぐって既存のコミュニティと競合状態にあるとしても、そうしたコミュニティに頼ることになる。ゲームは映画、テレビ、コミックがかつて疑いの目にさらされたのと同様、既存メディアの批評家からの疑念に直面した。『ガーディアン』のゲーム編集者であるキース・スチュワートは、主流メディアはゲームに対してそれをとりまく人の話題という角度からアプローチするほうを好んでいると見なしており、これにはインディーゲームをジャーナリストの興味を引くようなクリエイターと同一視するようなことも含まれる。ゲームを対象とする批評コミュニティも同様で、ゲームの芸術的可能性は単独のクリエイターに支えられたものであると見なす作家主義を受け入れている。『ロンドン・レビュー・オブ・ブックス』のジョン・ランチェスターは、コンピュータゲームの市場規模が映画や書籍に比べて収益の点で大きくなってきているにもかかわらず、コンピュータゲームに向けられる関心の大きさは通常、特定の種類の少ない情報源に反映されるだけで、すぐに「文化的言説」に入り込むことがないと述べていた。 作家主義により、インディーという位置づけと芸術的威信が重ねられるようになっており、批評家はインディーゲームのスタイル上の選択を称賛する一方、商業ゲームで同じ選択がとられた時は批判されるというようなことが起こる。アートゲームの支持者はゲームというメディア全体を守るよりも、自らが低位文化とみなすコンピュータゲームに対して分離された領域を作り出そうとしている。実際のところ、インディーゲームの作家たちはしばしば商業的な支援を受けており、一方で主流のクリエイターである宮本茂やピーター・モリニューもだんだん芸術性のある作家と見なされるようになってきている。インディーであることと芸術性の同一視はアンナ・アンスロピー、ルーシー・ケラウェイ、ジム・マンローなどに批判されており、こうした人々はインディーゲームを主流から区別する性質というのは固有の芸術性ではないと論じている。 ゲームデザイナーのキム・スウィフトは、ゲームは芸術的であり得るが、文化的価値を有するためには芸術たる必要があるという考えは拒否している。スウィフトは、コンピュータゲームは大人が想像力を駆使できるようなおもちゃであることを志向すべきであると考えている。
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