船田合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/31 16:02 UTC 版)
守護土岐成頼は嫡男政房よりも末子元頼を愛し彼に家督を譲ろうと考え、政房・妙純を倒すため、守護代利藤と結んだ。更に強い出世志向を持つ石丸利光が同僚の西尾直教と対立しているのを知ると、利光に斎藤姓を許した上で妙純から離反させてこれと手を結んだ。その結果、美濃とその周辺諸国を巻き込んだ船田合戦が勃発する。 明応3年(1494年)12月、西尾直教による追い落としの策謀を知った利光は居城船田城に兵を集め、妙純を奇襲しようとしたが失敗、成頼に頼み込んで一旦妙純と和議を結んだ。一方、妙純も居城加納城の防備を固くし事態に備えた。 明応4年(1495年)5月から6月にかけて、利光は船田城へ斎藤利藤の孫利春、末子毘沙童、更に土岐元頼を次々と迎え入れた。妙純には尾張の織田寛広(寛広の養父敏広の妻は妙椿の養女)から援軍が駆け付けた。7月1日に合戦があり、石丸方が敗れ、形勢不利と見た利光は、7日に船田城に火をかけ近江へと逃れた。石丸方が敗れたことで責任を感じたのか、成頼は城田寺城に隠居、政房に家督と守護職を譲った。 明応5年(1496年)5月、妙純が尾張の織田寛広支援のために出陣中に、利光は近江の六角高頼、尾張の織田寛村、伊勢の梅戸貞実らの援助を得て、4000の兵で伊勢、尾張を通り、成頼の居る城田寺城に入った。妙純方には近江の京極高清、尾張の織田寛広、越前の朝倉貞景の援軍が集まった。27日に合戦が始まるが、石丸方は劣勢で29日には城田寺城は包囲され、30日に利光は自害した。成頼は妙純が元頼を許さないため、城から出ようとしなかったが、政房が出向いて説得し6月16日に漸く城を出た。20日、城田寺城に火がかけられ元頼は自害した。利藤も間もなく隠居させられることとなった。 同年8月、法印権大僧都となり、嫡男の利親に家督を譲った。
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