文明美濃の乱とは? わかりやすく解説

文明美濃の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 15:50 UTC 版)

船田合戦」の記事における「文明美濃の乱」の解説

室町時代になると美濃守土岐氏権力衰え代わりに守護代斎藤氏台頭し守護後継決めるまでになっていた。康正2年1456年)に土岐持益隠居させられ斎藤利永擁立した土岐成頼守護就任したことがその表れである。 長禄4年1460年)の利永死後嫡男の利守護代職を継いだが、幼少のため利永の弟で叔父斎藤妙椿後見人となった応仁の乱妙椿西軍加わり美濃国内の荘園横領反対勢力駆逐し近江越前尾張進出、成頼の被官ありながら事実上美濃支配者となった妙椿家系守護代に対して持是院家呼ばれる文明12年1480年2月妙椿亡くなると持是院家は甥の利国(妙純)が継いだが、妙純の異母兄が妙純と対立妙椿がかつて横領した荘園8万石を妙純が守護成頼を通して返還したことから8月27日合戦始まったが、室町幕府支援得たに対して成頼は妙純を支持11月に利敗れて近江六角高頼元へ逃れたが、妙純の重臣石丸利光追討され京都逃亡した(文明美濃の乱)。 文明13年1481年7月室町幕府と成頼・妙純は和睦したが利守護代復帰はならず長享元年1487年)に幕府仲介で利守護代復帰翌年美濃戻った。しかし、実権は妙純が握っており、幕府命令は妙純を通して成頼へ、次に伝えるという形を取ったため、利の不満は解消されいままであった。文明美濃の乱で功績のあった石丸利光文明13年2月に妙純から斎藤姓を与えられて後に又代の座に就いたが、次第に利接近していった。

※この「文明美濃の乱」の解説は、「船田合戦」の解説の一部です。
「文明美濃の乱」を含む「船田合戦」の記事については、「船田合戦」の概要を参照ください。

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