臨済宗京都十刹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 23:40 UTC 版)
もとの寺地は、一条東洞院にあった。 1309年(延慶2年)、後宇多上皇が、柳殿御所跡を南浦紹明の塔所にと、敷地を寄進したのにはじまる。はじめ瑞雲庵という庵で、通翁鏡円が塔主をつとめていた。その後、瑞鳳山竜翔寺となり、絶崖宗卓が住持となる。 1386年(至徳3年)京都十刹に列せられ、のちに諸山となる。 1541年(天文10年)大徳寺山内に移転され、塔頭となる。 1874年(明治7年)明治維新の廃仏毀釈で廃寺となる。 1925年(大正14年)山口玄洞の寄進により再建。以後、大徳寺派の専門道場となる。 院内には大政所や佐々成政の墓がある。
※この「臨済宗京都十刹」の解説は、「竜翔寺」の解説の一部です。
「臨済宗京都十刹」を含む「竜翔寺」の記事については、「竜翔寺」の概要を参照ください。
臨済宗京都十刹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 15:10 UTC 版)
「宝幢寺 (京都市右京区)」の記事における「臨済宗京都十刹」の解説
1379年(康暦元年)足利義満の開基、春屋妙葩を開山とする。 足利義満は夢の中で、今年かならず大病すると告げられた。ただし、一伽藍を建立すれば寿命は延びるとも告げられた。そこで、足利義満は、春屋妙葩を開山として、1379年(康暦元年)に、当初は、興聖禅寺と称した宝幢寺を創建し、つづいて開山堂を建てた。さらに、開山堂の周りに野鹿があつまったことで、開山堂を鹿王院と称した。 1380年(康暦2年)足利義満により準十刹に列せられた後、1386年(至徳3年)5月十刹に列せられ、1386年(至徳3年)7月京都十刹に列せられた。 一休宗純が、12歳の時に、ここで維摩経の講義を聞いている。宝幢寺は、応仁の乱で、焼失して廃絶するが、鹿王院のみ残ったため寛文年間に酒井忠知が再興し、鹿王院を寺名にした。
※この「臨済宗京都十刹」の解説は、「宝幢寺 (京都市右京区)」の解説の一部です。
「臨済宗京都十刹」を含む「宝幢寺 (京都市右京区)」の記事については、「宝幢寺 (京都市右京区)」の概要を参照ください。
臨済宗京都十刹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/20 23:44 UTC 版)
智覚禅師を開山とし、1386年(至徳3年)京都十刹に列せられた。広覚寺が廃寺となった年は判っていない。
※この「臨済宗京都十刹」の解説は、「広覚寺」の解説の一部です。
「臨済宗京都十刹」を含む「広覚寺」の記事については、「広覚寺」の概要を参照ください。
臨済宗京都十刹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:43 UTC 版)
足利直義(1306~52)の開基、大同妙喆を開山とし、1341年、(暦応4年)十刹に列せられる。その後、南北朝初期、無徳至孝が住持しているときに山城国安国寺となる。が、その後、東福寺の法幢院に合併し、現存しない。山城国安国寺が廃寺となった年は判っていない。
※この「臨済宗京都十刹」の解説は、「北禅寺」の解説の一部です。
「臨済宗京都十刹」を含む「北禅寺」の記事については、「北禅寺」の概要を参照ください。
- 臨済宗京都十刹のページへのリンク