臨済宗円福寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 20:53 UTC 版)
開山となった法身性才は、中国の宋で修行してから帰国した僧である。彼はしばらくして立ち去り、宋の出身で建長寺を開いた蘭渓道隆が円福寺第2代住持になった。以後は蘭渓道隆の弟子が円福寺に住した。 臨済宗円福寺は将軍家が保護する寺社である関東御祈祷所に指定された。更に北条氏の保護を得て最初五山・十刹に次ぐ諸山のうちに数えられ、後に関東十刹に昇った。当時の建築物は現存しないが、『一遍上人絵伝』に見える。平成3年(1991年)に当時の遺構の一部と多数の遺物が発掘された。他に、嘉暦元年(1326年)の雲版が伝世する。しかし、火災によって戦国時代の終わりには廃墟同然にまで衰退した。天正6年(1573年)頃、93世実堂の代から臨済宗妙心寺派に属した。
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