美術院脱退から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:34 UTC 版)
1936年(昭和11年)には日本美術院を脱退。東京府下久留米村(東久留米市)で「土筆居」と名付けたアトリエで創作を続け、百貨店での個展開催や画集の刊行などを行っている。戦時中には静岡県や故郷山梨の山中湖の別荘などに疎開している。戦後は再び東京都豊島区巣鴨(北大塚)でアトリエ(白井晟一設計)を構え、墨心会に所属しながら日展に出展するなど創作活動を行い、院展脱退後の戦前から戦後にかけても画風の変化が指摘されている。晩年は俳句や三味線などの趣味やゴルフ、スキーなどのスポーツも嗜み余生を過しており、脳炎により78歳で死去。墓所は上野寛永寺。墓碑のデザインは白井晟一、銘書は中川一政。 漫画や新南画、水墨画など日本美術史における浩一路の画業に対する位置づけは未だ不確定であるが、「孤高の画家」「異色の水墨画」といった異端的評価がなされている。 作品は東京国立近代美術館、山梨県立美術館、近藤浩一路記念南部町立美術館などに所蔵されている。
※この「美術院脱退から晩年」の解説は、「近藤浩一路」の解説の一部です。
「美術院脱退から晩年」を含む「近藤浩一路」の記事については、「近藤浩一路」の概要を参照ください。
- 美術院脱退から晩年のページへのリンク