紀州征伐とは? わかりやすく解説

紀州征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 06:42 UTC 版)

木食応其」の記事における「紀州征伐」の解説

「紀州征伐」も参照 天正13年1585年豊臣秀吉根来寺粉河寺雑賀攻略した後、高野山に対して降伏求めたこの際応其南院宥全、遍照尊院快言とともに高野山使僧として派遣され秀吉からの降伏条件の書を受け取った高野山側はこれを受諾し応其と良運・空雅が返書持って秀吉の元を訪れた高野春秋編年輯録では、良運は学侶代表し、空雅が行人代表であり、応其は空雅に従ったものとしている。応其使僧となった理由には、応其秀吉旧知であった説、高野物語のあげる石田三成旧知間柄であった説、連歌上の交友関係が間を取り持った説がある。これ以降秀吉との間柄急速に進展する

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紀州征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:12 UTC 版)

石山合戦」の記事における「紀州征伐」の解説

5年1577年2月2日紀伊雑賀衆中でも本願寺非協力的であった雑賀三緘衆と根来寺の坊が信長軍へ内応した。これを受けて信長準備整えた上で2月13日京都出て対抗する雑賀勢の篭る和泉紀伊攻め入った(紀州征伐)。織田信長の軍は貝塚にいた雑賀衆攻撃したのち佐野進み自軍信達山手浜手二手分け紀伊攻め入った3月1日雑賀衆頭目1人有力な門徒でもある鈴木孫一居城包囲し攻め立てた。しかし、この攻勢周辺一帯荒れ果て戦線膠着状態に陥ったことから、事態憂慮し雑賀衆翌日大坂での事に配慮加えることを条件降伏申し入れたため、信長はこれを受け入れて兵を引いた

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