紀州征伐
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「紀州征伐」も参照 天正13年(1585年)豊臣秀吉は根来寺・粉河寺・雑賀を攻略した後、高野山に対して降伏を求めた。この際応其は南院宥全、遍照尊院快言とともに高野山使僧として派遣され、秀吉からの降伏条件の書を受け取った。高野山側はこれを受諾し、応其と良運・空雅が返書を持って秀吉の元を訪れた。高野春秋編年輯録では、良運は学侶を代表し、空雅が行人代表であり、応其は空雅に従ったものとしている。応其が使僧となった理由には、応其が秀吉と旧知であった説、高野説物語のあげる石田三成と旧知の間柄であった説、連歌上の交友関係が間を取り持った説がある。これ以降、秀吉との間柄は急速に進展する。
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紀州征伐
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翌5年(1577年)2月2日、紀伊の雑賀衆の中でも本願寺へ非協力的であった雑賀三緘衆と根来寺の杉の坊が信長軍へ内応した。これを受けて、信長は準備を整えた上で2月13日に京都を出て、対抗する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に攻め入った(紀州征伐)。織田信長の軍は貝塚にいた雑賀衆を攻撃したのち佐野に進み、自軍を信達で山手・浜手の二手に分け、紀伊に攻め入った。3月1日に雑賀衆の頭目の1人で有力な門徒でもある鈴木孫一の居城を包囲し攻め立てた。しかし、この攻勢で周辺一帯が荒れ果て、戦線も膠着状態に陥ったことから、事態を憂慮した雑賀衆が翌日に大坂での事に配慮を加えることを条件に降伏を申し入れたため、信長はこれを受け入れて兵を引いた。
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