粛清とその後
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アマンは彼の逮捕に向かったデルグ側部隊との戦闘で死亡した。戦死したのか、それとも自決したのかは明らかになっていない。同日夜、デルグ当局は処刑を予定していた政治犯らをメネリク刑務所からアカキ中央刑務所まで護送した後、同刑務所内で全員を処刑した。バール・ザウデは、アマンは有能であったものの、デルグの政権運営にとって不都合な存在になっていたのだと結論付けている。
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粛清とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:37 UTC 版)
国久の娘は晴久の正室であったが、その娘が死去した直後の天文23年11月1日(1554年11月25日)、晴久は家中の統一を図るため突如として国久、誠久親子ら新宮党幹部を粛清した。国久は登城途中で暗殺され、誠久は新宮党館内にて自害した。その一族も自害もしくは逃亡して、新宮党は壊滅した。粛清後、晴久は尼子氏久に新宮党を率いさせた。 杵築大社・杵築大社支配下勢力との折衝役であった新宮党とその一族が粛清されたことにより、晴久は杵築大社以下の西出雲にも本格的介入が可能となり、目論みであった出雲一国の直接統治はほぼ完遂された。また混乱による軍事的な弱体化を小規模に抑えたことで、その後も晴久存命時には毛利元就を忍原崩れで破り一時は安芸に侵入するなど、激しくなる毛利氏の攻撃をよく防いだ。他方で内紛により一時的に対尼子戦線の圧迫が緩和された毛利氏は間隙を縫って厳島の戦いなど対大内氏方面に注力して急速に勢力を拡大することに成功し、またこの粛清によって尼子勢力から有力な親族衆が失われ、尼子氏から追放・抑圧された国人衆の不満を生むことになった。晴久が急死し尼子義久が後を継ぐとこれらの親族衆不足や国人衆の離反・反乱が露呈、結果的に尼子勢力は急速な衰退を迎えることとなった。 なお一説には国久に晴久を暗殺するように仕向ける内容の手紙を持った死体を毛利元就が月山富田城の門前に置き、晴久が手紙に惑わされて新宮党を粛正した、とも言われるが、これは同時期に元就が同様の謀略で陶隆房の家臣である江良房栄を陥れた事件を基に後年創られた逸話と考えられている。
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