粛清に斃れる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 17:51 UTC 版)
1936年(民国25年)12月に西安事件が起きると、韓復榘は電文を発して張学良・楊虎城を支持している。翌1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、10月に韓復榘は第3集団軍総司令兼第5戦区副司令長官に任命された。しかし韓復榘は、自分が蔣介石の捨て駒として扱われていると感じていた。そのため、日本軍との本格的な戦闘は行わずに、済南などを放棄して、山東省西南部に撤退した。その一方で、四川省政府主席劉湘と密かに連携し、反蔣運動も企んでいる。結局これらの行為は、蔣介石に韓復榘の粛清を決断させることとなってしまった。 1938年(民国27年)1月11日、韓復榘は開封で開かれた軍事会議に出席したところを逮捕され、漢口に収監された。同月24日、韓復榘は命令違反により独断の撤退を犯したとして、蔣介石の命令により処刑された。享年49。
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