粛清による最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:10 UTC 版)
1392年(洪武25年)、懐遠の田畑が欲しいと請うた。朱元璋は「十分な禄を与えているにもかかわらず、民の利益を侵そうというのか?」と不快に思った。8月、馮勝と共に山西へ向かい、また、大同、東勝で屯田を行い、十六衛を設立した。12月に東宮師保官を兼務した。馮勝と共に、山西、河南で練兵を行った。 1393年(洪武26年)2月、応天府に召還された。3月、馮勝と共に山西、北平の守りについた。 1394年(洪武27年)11月、罪を得て、賜死を命じられて亡くなった。2年前に皇太子の朱標が亡くなり、朱允炆が皇太孫になると、その将来に不安を抱いた朱元璋は、傅友徳のような実力者を危険視していた。粛清の明確な理由は不明である。
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