粛正と追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 14:52 UTC 版)
「フランソワ・デュヴァリエ」の記事における「粛正と追放」の解説
デュヴァリエが政権を握ってまもなく、ハイチは北半球で最悪の圧政がしかれている国のひとつだという告発がなされた。じっさい国内で政敵に対してとられていた手法は粛正と追放であり、その犠牲者はおよそ30,000人にのぼるという推計がある。軍部内での反デュヴァリエ的な行為についてはとくに重くうけとめられた。1967年、大統領宮そばに爆弾が投げ込まれそれが爆発するという事件が起こると、デュヴァリエは自身の親衛隊の士官19名の射殺を命じている。数日後に行われた大統領演説のなかで、デュヴァリエは殺された19人の名前が並んだ「出席簿」を読み上げていった。名前を呼ぶたびに「欠席」と続け、全員の点呼を終えると一言、「みな殺されました」とだけ口にした。 ハイチ人のなかでも共産主義者とそれを疑われたものは特に、国内での圧政の酷さに疲弊しきっていた。デュヴァリエが彼らに的を絞ったのは、共産主義国家キューバに対するとりでとなることでアメリカの安全保障に協力するためだったが、同時にこの共産主義者の扱いはデュヴァリエ自身の信条によるものでもあった。共産主義や左派の思想に親しんだのは過去の話であり、いまやそれらに嫌悪感を覚えていたのである。1969年4月28日にはハイチから全共産主義者を排除するための法令が公布され、それの定めるところでは「共産主義者の活動は、それがどんな形をとったものであっても国家の安全保障を犯すという宣言である」とみなし、この法に触れたものには死刑が命じられた。
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