粛宗による換局政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)
次代、粛宗の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行うことで、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。1680年の庚申換局(キョンシンファングク)で西人に権力を掌握させると、1689年には、己巳換局(キサファングク)で今度は南人の手に政権が移った。1694年の甲戌換局(朝鮮語版)(カプスルファングク)で再度西人に権力が移るという具合であった。その後西人は老論と少論に分裂する。 粛宗は胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。この時代には清との間での領土問題や日本との間に鬱陵島とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。江戸幕府は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。[要出典]猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張している。 1720年に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。景宗が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は1721年から1722年に渡って、老論の粛清を行った(辛壬士禍)。
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