第1回開催まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/01 00:02 UTC 版)
「日劇ウエスタンカーニバル」の記事における「第1回開催まで」の解説
1954年からウエスタンバンドが集まって、有楽町蚕糸会館6階の東京ヴィデオ・ホールで「ウエスタンカーニバル」というイベントが開催されていた。1950年代半ばころになると入場できないファンも出るほどの盛況となり、「親衛隊」のような熱烈な女性ファンも付くようになっていた。その一方、ウエスタンバンドのメンバーたちは東京ヴィデオ・ホールの出演時以外は東京都内の小さなジャズ喫茶で細々と演奏を行っていた。 そうしたウエスタンバンドのパフォーマンスに注目したのが、渡辺プロを立ち上げて間もない頃の渡辺美佐であった。美佐はジャズの次の音楽ビジネスの中心になるものを模索していたが、たまたま美佐の実妹の曲直瀬信子がロカビリーのファンで、美佐は信子の紹介でジャズ喫茶や東京ヴィデオ・ホールでのウエスタンバンドのイベントに足を運んでおり、一つの試みとして「2月の暇な時期に若い子にウエスタンでもやらせたら」と思い立った。 だが、当時無名であったウエスタンのバンドを集めてのイベントに劇場側は「客を呼べるのか?」と懐疑的で、実際に浅草の国際劇場には開催を断られていた。美佐は知人の演出家・山本紫朗のもとを訪ね、2人で日本劇場に企画を持ち込んだ。日劇も最初は渋ったが、観客動員が期待できないとされた2月の開催ということもあって承諾した。 一方、東京ヴィデオ・ホールでの「ウエスタンカーニバル」を実質的に取り仕切っていたスウィング・ウエストのリーダー・堀威夫も東京ヴィデオ・ホールやジャズ喫茶での観客の反応を肌で感じて、「東京ヴィデオ・ホールより大きい劇場で開催しても成功する」と確信し、より収容人員の多い日劇での「ウエスタンカーニバル」開催を思い立った。ただ、堀たちには日劇とのコネクションがなかったため、ジャズプレイヤーとして幾度か日劇の舞台に立っていた渡辺晋の元に相談に行った。ここで晋から自身の妻である美佐に話を持っていくように言われ、思惑の一致を見たことで美佐・山本・堀の3人が中心となって「第1回日劇ウエスタンカーニバル」の企画が進んでいった。 「日劇ウエスタンカーニバル」を開催するに当たり、山本は構成・演出を担当。出演者の選考、演奏曲目、出演順の決定、チケットなどの営業活動は全て堀が担当した(後述の「ロカビリー3人男」を「日劇ウエスタンカーニバル」に引っ張ってきたのも堀である)。また、美佐の妹・信子もファンとの横のつながりを生かして、親衛隊にテープ投げを依頼するなど制作サイドと観客の橋渡し役となった。 こうして開催された「第1回日劇ウエスタンカーニバル」は前述のような成功を収めた。
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